まさに電撃的な発表だった。
新日本プロレスは23日、同日付けで「エース」として現役バリバリの棚橋弘至(47)が新社長に就任することを発表した。
この日の臨時株主総会・取締役会で経営体制の変更が決定。2020年10月から就任していた大張高己社長が退任。棚橋が現役選手のまま第11代社長に就任することになった。
現在、オカダ・カズチカ、石井智宏とNEVER無差別級6人タッグ王座を7度防衛中で、来年1月4日の東京ドーム大会ではザック・セイバーJr.の持つNJPW WORLD TV王座に挑戦する一線の存在ながら選手兼社長を務めることになる棚橋。
選手兼任社長は初代から3代目社長を務めた団体創始者のアントニオ猪木氏、坂口征二氏、藤波辰爾に続く史上4人目。藤波が退任した04年6月以来、19年半ぶりとなる。
極秘中の極秘のトップ人事として、この日正午に一斉発表に踏み切った新日。私も一報を耳にして「えっ!?」と驚いたが、同時に心の底から納得もした。
なぜ、47歳のベテランが今でもスターぞろいの業界トップ団体の中で「エース」と呼ばれ、ファンに愛され続けているのか。その理由を心底、思い知らされたのが、ちょうど1年前のこと。昨年12月27日に行った棚橋にとって初の人生相談本「その悩み、大胸筋で受けとめる 棚橋弘至の人生相談」(中央公論新社刊)についての単独インタビューの席上だった。
インタビュールームで「100年に1人の逸材」はパンプアップした体にいつもの笑顔を浮かべてソファーに座り、私とカメラマンを待っていた。
「その悩み―」は八方塞がりの恋愛、上司からの圧、低い自己肯定感、離婚の踏ん切りどき、人生の意味など、誰しも抱く悩みに棚橋が正面から向き合う一冊。自ら悩み、もがきながら、相手に寄り添い、相談に乗る形。読売新聞が運営する働く女性を応援するサイト「OTEKOMACHI(大手小町)」での3年間の連載をまとめたもので発売以来、その温かい内容で大きな反響を呼んでいた。
包み込むように相談者と伴走。上から目線でなく一緒に考える内容が人気を呼んでいる一冊について、棚橋は「人の悩みに答えるというのは大役で誰しもができることではなくて―。悩んでいる方に頼ってもらえるのはうれしいこと。少しでも相談された方の生活がより良く楽しくなればって頑張りました」とニッコリ。
「これだけ相談をしてもらえるっていうのは、プロレスラーの範疇(はんちゅう)を超えてきたかなと思います。新日にはオカダ、内藤(哲也)、鷹木(信悟)、SANADA、いっぱいスター選手がいますけど、人生相談を担当できるのは僕だけです」と胸を張った。
「僕がプロレスを続けていく中で一番の気づきは自分が勝ちたい、目立ちたいよりはファンの方に喜んでほしいということ。自分のことよりも人のために何かをする時の方が力が出るんです」と明かすと、「ファンの喜びを自分のエネルギーにする。それが人の喜びを自分の喜びにするという生き方になってます。これはプロレスラーをやっていたからこそ気づけたことです。自分のためなんだけど、人に喜んでもらった方がよりやる気につながったり、パワーになるというのに気づけたのが、僕のプロレスラーになってのターニングポイントでした」―。
相談本の回答の中、最も印象に残ったのが「楽しくなくても、楽しそうに生きることはできる」という一文だった。
来年でレスラーデビュー25周年。決してエリート街道を突っ走ってきたわけではない四半世紀に及ぶレスラー人生。新日の入門テストにも3回目でやっと合格。過去には「僕はかっこいいだけなんです」と自虐的につぶやいたこともあった。
引退の危機もあった右ひざ変形性関節症など大ケガとの闘いを繰り返す中、00年代に一時は倒産の危機もあった新日を地方大会のたびに常に現地に前乗りして、ラジオ局などで懸命にプロモーション。V字回復に導いたのが、この男だった。
だから、1年前、棚橋にこう聞いた。
「『楽しくなくても、楽しそうに生きることはできる』という言葉は苦難も多かった自身のプロレスラー人生から紡ぎ出された言葉なのか」―。
この質問に笑顔を浮かべた棚橋は「2000年代に(大会を)プロモーションしながら回っていて、寝る時間もちょっとしかなくて、でも、大会を知ってもらうために稼働しまくっていた。その時に疲れた顔でプロモーションに来ても、見ている人には熱は伝わらない。楽しそうに生き生きと、なんで、この人、こんな熱量でプロモーションしてるんだろう。楽しそうだな、じゃあ、行ってみようかなってなるでしょ」と、逆にこちらに問いかけた。
その上で「『あの人、何かいつも楽しそうだな』って人がいるじゃないですか? いつも笑顔でエネルギッシュでって人も絶対、辛いことはあるのに人に見せない。どんなにしんどくても顔だけは笑っていられるってのが僕の特技。顔を笑顔でフィックスできるんですよ。みんながイメージする棚橋でいたい。いつも笑顔でいたいんです」と明かした。
そして、インタビューの1時間後。東京・神保町の書泉ブックマートで行われたサイン本お渡し会に登場した「エース」は文字通り、笑顔を振りまいた。
限定100人の参加券は「即完売」(書店関係者)。女性中心のファンが列を作る中、いきなりファンの列に飛び込み、「皆さん、こんばんは!」と呼びかけると、ファンは突然の主役“乱入”に悲鳴をあげた。
お渡し会では、一人一人のファンとアクリル板越しにグータッチ。常連の女性ファンには「よく会場に来てるよね」と語りかけ、大阪から日帰りで駆けつけた女性には「気をつけて帰ってね。良いお年を」と笑顔で気遣った。
100人のファンと丁寧に、心底楽しそうに会話を続けた棚橋の「優しさ全開」の表情は今でも、くっきりと覚えている。ファンの心底、幸せそうな笑顔も。
どうだろう。その魅力の根源を知りたくて追いかけ続けた私に様々に見せてくれた1人のトップレスラーの優しさと気配りの数々が伝わっただろうか。
長引く新型コロナ禍の中、トップ団体・新日も観客減に苦しんでいる。91年12月に6万1500人を集めたドル箱の東京ドーム大会にしろ、今年の1・4の動員は2万6085人。一部の熱狂的なファンを除くと、プロレス人口は減少し続けているのが事実だ。
だからこそ、今、新日はファンが「太陽の天才児」と呼ぶ団体にとって、そしてファンにとって太陽のような存在である棚橋をトップに据えて勝負に出たと、私は見る。
「顔を笑顔でフィックスできるんですよ」
「楽しくなくても、楽しそうに生きることはできる」
「自分のことよりも人のために何かをする時の方が力が出る」
今、1年前のインタビューでの棚橋の言葉の数々を、じっと思い出す。
そう、インタビューでは、こんな場面もあった。「今年にかける思いを」と差し出した色紙に約3分間考え込んだ後、「大復活」と大書した棚橋は、こう答えた。「今年、IWGP世界ヘビーをとりますんで。それまでは絶対に辞めません。期待して下さい」―。
その思いは年内にはかなわなかったが、社長業の傍ら現役も続ける棚橋が、まだまだ新日有数の実力者であることは事実だ。
26日に新社長就任会見に臨む「エース」の口から、どんなポジティブな、それこそ太陽のようにこちらを元気にしてくれる言葉が飛び出すのか。私は今から楽しみでしようがない。そこには、きっとこれからのプロレス界が目指すべき前向きな「明日」があるから―。(記者コラム・中村 健吾)
◆棚橋弘至(たなはし・ひろし) 1976年11月13日、岐阜県大垣市生まれ。47歳。立命館大法学部時代、アマチュアレスリング、ウエイトトレーニングに励み99年、3度目の挑戦で入門テストを突破し、新日本プロレス入門。同年10月、真壁伸也(現刀義)戦でデビュー。03年、初代IWGP U―30無差別級王者となり11度防衛。06年7月、IWGPヘビー王座決定トーナメントを制し同王座初戴冠。11年~12年の第56代王者時代には連続最多防衛記(当時)のV11を達成。G1クライマックスは07、15、18年の3回制覇。ニュージャパン杯は05、08年の2回制覇。プロレス大賞MVPは09、11年、14年、18年と4回受賞。181センチ、101キロ。愛称は「新日のエース」、「100年に1人の逸材」。
からの記事と詳細 ( 棚橋弘至が新日本プロレスの新社長にふさわしい理由…「人のために何かをする時の方が力が出る」という生き方 - スポーツ報知 )
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